悪魔の2020年大成果:6000万人の胎児殺害と社会の完全な沈黙

皆さん、今日のカトリック信者にとって曖昧になっている一連の問題ですが、先ず私たちの司牧者たちは為すべき仕事をしているだろうか?ピュー研究センターの調べによれば、ここではアメリカや世界の動向について、特定の主義主張にかたよらない客観的事実に基づいた分析を行なっているが、カトリックの共和党支持者の55%はどのような理由であれ堕胎は違法だと考えている。一方カトリックの民主党支持者の64%がほとんどの場合に堕胎は合法であると考えている。つまりカトリックとして洗礼を受けていても、カトリック教会の教えよりも支持政党の意見に従い、それを表明するカトリック信者が多いのである。ということは神も教会も、もはや信者の生活の中心では無くなっている事の印なのだろうか?

重要な争点は、世界では毎年平均5600万件の堕胎が行われており、それは1000人の女性につき35件の割合である。アメリカだけでも、最近のデータによれば年間で63万8169件の堕胎が報告されている。

私の最近の記事「悪魔はほくそ笑んでいる、私たちの牧者はどこに?」の中で私はカトリック教会の指導力不足を取り上げて、何故堕胎を支持し合法化する法律を通過させようとするカトリックの政治家たちを黙認し直接働きかけようとしないかを問いただした。こうした悪法は、堕胎を臨月まで許すばかりか、堕胎手術が失敗して生きて生まれた子を放置して死に至らしめることを(つまり、もはや嬰児殺しである)意味している。私は40年余り、妊娠中絶合法化反対の立場での司牧に携わって来たが、この問題はよりおぞましい方法で悪化の一途を辿っている。

それは何故だろうか?答えは簡単だ、沈黙のゆえだ。有りとあらゆる顔を持った沈黙のゆえである。私たちの牧者たちのメチャクチャなコメント付きの沈黙。殆どの善きカトリック信者を覆っている無関心からくる沈黙。この二つの沈黙が、悪魔の破壊的な使命を黙認してしまい、徐々に神の無垢な被造物を破壊して、色々な方法でカトリック教会の影響力を弱めることを許してしまっているのだ。聖霊はあなた方無しには何も成し遂げる事は出来ないのを思い起そう。

カトリック教会の司牧者たちは何処にいるのだ?と私は大声で叫ぶ。5600万件の人の子殺しに対して一切の非難も破門も無し。なぜ公然と悪魔とその支持者を非難しないのか?何故沈黙しているのか?悪を非難するのが怖いのか?何故バイデンを破門しないのか?カトリックである彼は大変な醜聞を撒き散らしている。生まれる前の赤ん坊を殺す人工妊娠中絶は悪である。あなた方は、神が与えられる価値や道義が危うくなっていることに気づかないのか?バイデン支持者すなわち人工妊娠中絶支持者達はカトリック教会の組織を壊そうとしている。何故あなた方は神の十戒や教えを守る事を恐れるのか?沈黙するなら、それは人工妊娠中絶を行うことを黙認したことになると気づかないのか?神は聖書の中で365回以上も「恐るな」と仰っている。例えば申命記31:6「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」牧者は神の前に、生まれる前の子ども達とその生きる権利のために積極的に戦う特別な義務がある。あなたがたはローマから牧者として任命されたのだから、あなた方の羊である生まれる前の子ども達に責任がある。悪魔の前に沈黙を続けるという選択はあり得ない。我々カトリックは悪魔の前に片膝を付いたりしない。

英語の言葉遊びが拡大解釈を招いて無いか考えてみよう。政治家の使う「妊娠中絶」という言葉だが彼らの公式な辞書によれば「人の妊娠を故意に終わらせる事」と明言されている。故意にとは意識して計画的にという意味で衝動的なという意味は含まれない、つまり「人の妊娠」を終わらせる計画的な決定である。「妊娠」とは生まれる前の子どもが胎内で育っていること、それを計画的に終わらせる「妊娠中絶」とは間違いなく人間によってもう一人の人間を殺す事である。

この単純な事実を理解するのに医学の博士号は必要ない。しかし言葉の意味を変えて「妊娠中絶」を合法化してしまうためには医学の博士号が必要である。一般の人にとっては、間違った定義に基づいているものを合法化することはあり得ないが、現職のカトリックの政治家たちは平気でそれを合法化している。彼らは言葉の意味を変え、何の責任も負う事なく子どもを殺すことが許される法律を合法化している。

政治家達はいかに「妊娠中絶」という言葉を巧みに操作して来たことか?偽メディアによって「妊娠中絶」という言葉の重みは弱められたために、しかるべき学術調査を経ることなく偽物の法律を通すことはより簡単になった。政治家達(カトリックを含む)は「妊娠中絶」という言葉を「人権」というカテゴリーに移してしまったが、これは理論的に正しいだろうか?再び辞書によれば「人権」とは「全ての人が持っている権利」であり、国連によればさらにはっきりと「人権とは全ての人が生まれつき持っている権利であり、人種、性別、国籍、民族、言語、宗教その他のいかなる身分にも関わらない」と定義されている。「人権」には自由に生きる権利、奴隷制度や拷問からの解放、言論の自由、働いたり教育を受ける自由などが含まれる。

私はカトリックの政治家やメディアに「あなた方は辞書を書き直すことができるほど知的に優れているのか?」と尋ねたい。上記の定義によれば、どうしたらカトリックの政治家や新聞さえも「妊娠中絶」は「女性の子どもを殺す権利」だと要求することが出来るのか?しかも同時に子供の生きる権利を除外して。この「人権」に対する間違った解釈を誰かに自分の選択で押し付ける事など出来るわけがない。

もう一度尋ねよう?カトリック教会の指導者たちはどこにいるのか?5600万件の殺人に対して何の咎めも破門もないとは?何事だろうか?

カトリック教会の指導者達は一致して、より的確にどんな形の「妊娠中絶」をも咎めることを恐れるべきでは無い。若者の精神を毒し、彼らの個人的な出世のために「妊娠中絶」を合法化して社会を弱体化させている全てのカトリックの政治家の名前を公開して破門すべきである。我々の指導者たちは無垢な子供たちの小さな命を弄ぶべきでは無い。それは「生まれるか生まれないか」の問題では無く、唯一の人の人生が既に始まっているからである。はじめは人参、花、動物または木だった物が、驚いたことに人間として生まれるなどという推論ほど馬鹿げたものはない。

カトリック教会の早い歴史の中で教皇、司教たち、カトリック作家たちは異端や間違ったことを教える聖職者だけで無く、大国の力のある王さえも破門することによって非難した。キリストの本当の教えを、公に明らかにして守った司牧者に忠実な者の多くは、国外追放されたり、殉教したりした。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。ヨハネ15:15を読む時、我々は無知を口実にしたり沈黙を保つことが出来るだろうか?

 2019年6月8日の聖霊降臨の第一朗読は、出ジプト記からだった。それは3000年以上も前に書かれたにも関わらず、あたかも現代の世界について書かれているかのようだ。彼等は神の事を考えずにバベルの塔を建てようとして失敗したのである。

現代の我々も同じ状況にあるのでは無いか?我々の科学技術はいまだかつて無いほどに進歩したが、哀しいことに我々のこの科学技術は徐々に神に成り代わって来ている。その結果、今の法律は「妊娠中絶」の専門家を擁護している。バベルの人々と同様に、我々の技術や法律を持って神に成り代わろうとする試みは、我々を分断するばかりである。人間には「妊娠中絶」についての総意に到達するのは不可能であり、神を社会の中に取り戻さなければ、バベルの塔の話と同様に我々は廃墟の中に立ちつくすことになるだろう。

しかし、我々が神を社会に取り戻した上で改めて辞書を引くという、単純だが欠くことの出来ない作業を経れば、堅固な土台に立つ言葉の意味により、コミュニケーションが可能になり社会問題を解決出来る様になる。つまり、私は「妊娠中絶」という言葉を使うのはもうやめるべきだという事を強く提案したい。「妊娠中絶」ではなく、その本当の意味である「人間ががもう一人の人間を殺すこと」つまり「殺人」と呼ぼう。我々が「殺人」という言葉を使う時、利己的な政治家たちはこれ程にも馬鹿げた野蛮で恐ろしい法律を、「明らかな理由のための人権の旗の下」に支持することが出来るだろうか?

私はこれらの法律は事実に基づいていないという点で憲法違反だと考えている。いつ人の命が始まるか、を決める学問は人の胎生学の分野のみである。繰り返すと、政治家達(カトリックの政治家も)はその点に関して無知である。医学博士C.W.キッシャーのタイムリーな記事「彼らは『人の胎生学』という言葉を聞いたことがない。」を読んで欲しい。医学博士キッシャーの記事の多くはLifeIssues.net. で読む事が出来る。彼はアリゾナ大学の医学部の名誉教授で主に人の胎生学における細胞生物学と解剖学の専門家である。これらの研究の必読本は「この残酷な問題についての明らかな考え方」である。

 
例えば彼の「ローアンドウェイド裁判と社会への影響についての考察」という記事の中で、医学大学教授で人の胎生学の専門家であり生涯を通じて研究論文を出版して来た彼は以下のように述べている。「私は政治家達や議員達が、すでに確立されている科学的な原理を堕落させる必要が無いにも関わらず、そうしていること、また自らの専門家としての立場を進んで貶めている科学者達にも失望している。なぜこうなるのかと言えば、個々の胎児の「適正な手続きによる死」を、市民でありそれを望んでいる両親に立証しようとする意志が政府に無い、という単純な理由からである。最高裁判事アントニン・スカリアによって宣言されたものは科学も法律もはっきりしている。当時の憲法は全ての個人について法による適正な手続きが取られることを保証していた。卑怯にも「胎児」から個人という身分を剥奪し、政府は「適正な手続きによる死」の罪を免れているのだ。この決定は今だけの事で永遠ではあり得ない。理由は単純で受精卵が個人である事は絶対であり、それこそが科学だからだ。」

C.W.キッシャー博士の事実に基づいた観察に加えて、LifeIssues.net..のデイエンヌ・アーヴィング博士の(アメリカのカトリックの大学であるジョージタウン大学やドミニカン研究所での教授として書かれた物も含めて)仕事も参考にされると良い。彼女はアメリカカトリック医療協会および国際カトリック医療連盟の代表であり、1999年10月28日にメキシコシティで行われた会議で「人胚の尊厳と地位」についての論文を発表した。また国立衛生研究所、ベゼスタ国立ガン研究所医学博士でもあるアーヴィング博士は前経歴指定された科学研究員である。また哲学博士(ワシントンのジョージタウン大学)であり哲学史および医療倫理学の教授でもあるアーヴィング博士の248 の記事はすべて取り上げられ検証されて来た。

彼女の理論は「人の命のはっきりした考え」を中心とした事実に基づいており、反論の余地のない内容である。彼女の言葉は非常に分かりやすく、学者にも一般人にも訴える力がある。例えば「人が生きる権利はその存在が始まった時に始まる。存在の始まりとは生殖の最初の過程、つまり「精子と卵子の最初の接触– カーネギー発生段階の1(受精卵)の時である。これは決して哲学的でも宗教的でも、まして政治的でも無い、客観的で科学的事実である。」

彼女の別の記事「なぜローアンドウェイド法はカバノー判事に否決されなかったのか?」からの引用「肝心な事は現在の最高裁がいつロー判決を見直すかだ。彼らは当然仕事に掛かるべきであり、ロー判決が認めなかった、昔から知られている人の胎生学の客観的で科学的な事実を認めるべきである。ロー判決が下されたのはカバナー判事や他の最高裁判事達の政治的な立場のゆえではない。」

結論として、慎重な者はカトリック教会の命や妊娠中絶に関する教えが曖昧であると結論づけることは無い。カトリック教会は昔から常に顕著に妊娠中絶を咎めて来た。そしてその教えは間違う事がないと教学権が認めている。実際他のどんな教えにもそれ程一貫して強い口調で(妊娠中絶を悪だと)繰り返されているのを見つけるのは容易では無い。

さらにカトリック教会は、人権は人が神の似姿に創られたという我々の尊厳に基づいている事を教えている。であるからカトリック教会が常に人権の根拠に人が生まれながらに持っている尊厳を断言しても我々は驚くべきでない。そして人のいのちの最も初期から自然死までの生きる権利が、人の他の全ての権利の条件であり、最優先される権利である。「人間の尊厳と公益は特権を手放すことを拒否した者が受ける慰めより高いところに位置している。」と教皇フランシスコは教えている。「もしこれらの価値が脅かされたら預言的な声が上がるだろう」従って教会は人権を実現する活発な協力者である。

結論として、私は教会の守り手である我々の牧者達に、より強いリーダーとなり、責任感のある教師となり、それらの人々を清め、間違った教えや現代の異端を咎めることを恐れず、正面から悪を攻撃するのを恐れない事を願う。イザヤ41:10 で神はこう言っているではないか!「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」

神の祝福がありますように
ノボトニー・ジェローム、OMI

英語記事投稿2019年6月11日
https://jerry789.wordpress.com/2019/06/11/the-devil-is-smiling-56-million-human-homicides-and-silence/

翻訳日 2021年9月6日

ノボトニー ⋆ ジェローム 神父 について

Oblate Missionaries of Mary Immaculate (0MI)は 聖母献身宣教会 (オブレート 会)に所属するカトリックの司祭ならびに兄弟のグループです。私たちは 全ての人々 --特に貧しい人々 --が人間としての尊厳に対して、完全な自覚を勝ち取るために 努力しています。私たちは、声なき者の叫びを聞き、そして多くの人に聞いてほしい とがんばっています。正義への行動は、私たちの仕事に欠くことのできない部分であ り、抑圧と貧困の原因となる全てを変えようとしているのです。このように、私たち は、まさに命の誕生からその終わりまで、人間の尊厳を認識する社会を創ることにあ ずかっています。
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