ローマ教皇フランシスコは正しい:カトリックの教義では死刑囚監房は認められていない

2018年8月2日、ローマ教皇フランシスコは、カトリック教会のカテキズムを改訂し、死刑を「許しがたい」「人間の不可侵性と尊厳に対する攻撃」と記述するよう指示した。 いのちの福音において、教皇ヨハネ・パウロII世は、現代文化における矛盾を指摘している。教皇は次のように述べている。「まさに、人間の犯すことができない権利が厳粛に宣言され、命の価値が公的に確言されている時代において、生きる権利そのものが特に存在においてより重大な瞬間、すなわち誕生の瞬間と死亡の瞬間に否定され、踏みにじられている。」

人間の尊厳と人間の命の保護に関してローマ教皇フランシスコが公式声明を発表するやいなや、批判があふれ、反論や攻撃が起きていることには驚くばかりである。こうした批判は、司教、司祭、神学者、クリスチャンの間でも起きている。ただし、カトリック教徒の多数はこうしたことに憤慨し、カトリック教会の聖職者の最高位にある教皇へのこうした強固な反論に疑問を抱いている。極刑は彼らが言うところのドグマではない。批判をしている人たちにとっての精霊と、教皇にとっての精霊として、私たちを導く精霊が2人いるのだろうか?そんなことはない。イエスは精霊が「あなたを真実に導く」と明言している。どのようにして?教会を通じて、教導職を通じて、ペトロの後継者であるローマ教皇フランシスコを通じて私たちを導く。現在批判を行っている人たちは真実が見えておらず、精霊の中に神の顔である真実の顔が見えていない。

教皇の働きとはどんなものか、教皇にはどんな役割があるのか?イエスはペトロとその後継者に、聖職者となり、この世界で神の存在を導く者となることを任せた。ローマ教皇はすべての人々を導く聖職者の最高位であり、最高指導者である。(ヨハネ21,15-17)。ローマ教皇は神の愛のしるしである。聖書には、どれほど小さくても、どれほど醜くても、善人でも悪人でも神の前では平等であると書かれている。ローマ教皇は人々の味方である。人々の生き方、苦しむ様子、幸せを求める姿を理解し、すなわち、社会からつまはじきにされた人々が幸せの源である神の下に帰る方法を見つけられるように、門戸を開けておかなくてはならない。(ルカ15:11-32)。これまで、慈悲や思いやりがローマ教皇フランシスコの特徴とされてきた。すべての男女が神の下で平等に創造され、人間としての尊厳を得ることができる。

聖書には、神は慈悲を切り離して正義を語ることはないと書かれている。批判している人たちは、正義に限定した議論を繰り広げている。ローマ教皇フランシスコも含め、極刑の正義を否定する人はいない。精霊の導きを通して、ローマ教皇は正義と慈悲をひとつのもの、聖書にカトリックの定義として示されている「隣人の愛」と同じものと説明しているのだ。ところが、批判する人たちが慈悲を口にすることはほとんどない。極刑にどれくら慈悲を持ち込めばいいのか?答えは神と私たちの関係の中にある。神の慈悲がどれくらい与えられるべきなのか?クリスチャンが許しを請う時、神にどれくらいの慈悲を求めているのか?10%、40%、70%、100%。これは極刑にどれくらいの慈悲を与えるべきかを示している。

同様に、正義、慈悲および極刑は関連するものである。「隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 隣人とはだれのことか?あなたが今日会ったり見たりする人すべてがあなたの隣人である。しかし、「識別すること」が本当の問題だろうか?誰が隣人かを見出そうとするのではなく、「慈悲深い行動をする人」を見つけるべきである。少しの間、「隣人とはだれのことか?」と問いかけるのをやめよう。もっと深く熟慮すべき領域がある。決定的な問いかけは「私はどんな人物なのか?」であるべきだ。 助けが必要な時に手を差し伸べられる情け深い人に私はなれるのか?(慈悲)それとも、誰を、いつ、どこで、どのように助けるべきか、という問題にこだわるのか?(正義)

過去、教会は、極刑について、原則として倫理的には誤っていないが、多くの場合は不要なものであると述べていた。カテキズムでは、死刑は「その人の不可侵性と尊厳に対する攻撃であることから許しがたいもの」と説くだろう。このような教えの変化により、過去の教えが暗示するものがわかる。いのちの福音において、教皇ヨハネ・パウロII世はすでに「殺人犯でさえも自分の人としての尊厳を失わない。神自身がその尊厳を保証する」(9)と教えている。

極刑に関する教えの展開は、教皇ヨハネ・パウロII世の聖職者としての結論を絶対化するものである。こうした変化は、敵さえも愛しなさい;嫌われている相手にも親切にしなさい;善人にも悪人にも同様に雨を降らせる神を模範としなさいという、快適で豊かな文化において私たちが耳を傾けるべき新約聖書の教えの中核をなすものである。

右傾の批判的なカトリック教徒は賛同しないかもしれないが、人間の命の絶対的な保護は教会の教えに沿っているのである。教会は常に、自然死の概念から人間の命を守ることを教えてきたが、これまで採用されてきたのはクリスチャンよりも法律を尊重する考え方に押されたものである。

新しい考え方では、「現在は、しかし…」という重要な単語に焦点が置かれている。これは「その実施方法に関わらず」、死刑は「人間の命を意図的に抑圧することになり、福音に反する。神の目の前で命がささげられてはならない。真の判定を下し、それを引き受けるのは神だけである。」ことを意味している。過去においては、それが「不当な攻撃者から人間の命を効果的に守る唯一の実現可能な方法」だったのである。(CC No. 2267)それは過去のことである。「現在は、しかし…」

ノボトニー・ジェローム、OMI

ノボトニー ⋆ ジェローム 神父 について

Oblate Missionaries of Mary Immaculate (0MI)は 聖母献身宣教会 (オブレート 会)に所属するカトリックの司祭ならびに兄弟のグループです。私たちは 全ての人々 --特に貧しい人々 --が人間としての尊厳に対して、完全な自覚を勝ち取るために 努力しています。私たちは、声なき者の叫びを聞き、そして多くの人に聞いてほしい とがんばっています。正義への行動は、私たちの仕事に欠くことのできない部分であ り、抑圧と貧困の原因となる全てを変えようとしているのです。このように、私たち は、まさに命の誕生からその終わりまで、人間の尊厳を認識する社会を創ることにあ ずかっています。
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