自分ではない者のふりをする

今、私たちはモラルや原理のない世界に生きている。私たちは(1)キャンプで生活する難民、(2)1%の富裕層が富を牛耳ることによる貧困、(3)科学的根拠のない性教育、(4)因習として秘密裏に行われる結婚、(5)中絶産業を支える血税、(6)間違いや異常なことを市民に信じ込ませる法律から目を背けている。最近では「バスルーム戦争」がある。男性が女性用のトイレ、ロッカールーム、シャワー室に入り、服を脱いで自分の裸を少女たちに見せるのである。

LGBT運動家は、男性用のトイレや女性用のトイレがあたかもトランスジェンダーの人たちを抑圧するために作られているかのように行動している。トイレ、ロッカールーム、シャワー室にはそれぞれ「専用の目的」がある。それらは、別の性の人たちがもう一方の性の人たちに裸を見せて歩く目的で作られているわけではない。米国大統領が生物学ではなく心理学に基づいて公立学校にトイレ政策を指示したとき、私たちは国の最高レベルで誤った考えが公然と推進されている様子を目の当たりにした。

米国の最高裁判所は、6000年続く結婚制度を「再定義」している。最高裁判所は今、男性と女性の生物学的な真実を定義しようとしているのだ。

いわゆるトランスジェンダー権はどこに端を発しているのか?歴史上、そのような権利はなかった。法律専門家はトランスジェンダーという言葉を確実に定義することさえできない。ただし、世界人口のごく一部に対して、政府が突然新しい法律を作成し、生物学的な男女の定義を心理学的な定義に変更するかもしれないのだ。

なぜ?何のために?つつしみ、貞操、品位、恥じらいを放棄することが少数派の人たちにとって正しい解決策になるのだろうか?フリーセックスが答えになるのか?私たちはこうしたことを子供たちに望んでいるのか?

「ジェンダーアイデンティティ」に対するハリウッド的な答えは空想や幻想で、自分とは違う者になった気分を味わっているにすぎない。市民は、男性、女性という生物学的な組成と性的アイデンティティに反する何かを信じるよう求められている。これに盲目的に従うことは全くナンセンスである。

カトリック教会は我々が神の姿に似せて作られていることを明言している。カトリック教会は、男性と女性を、愛を分かち合い生命を生み出す関係として婚姻する性的な男女と特定している。男性、女性、子供は「セクシャリティ」という言葉に意味を与えている。こうした婚姻によって誕生する子供はすべて、愛の結晶として生まれてくる。

トランスジェンダーな人という言葉は、生殖的な意味を持たないことから「アンセクシャル(無性)」である。子供が誕生することはない。「生物学とは切り離された」性を語ることで、非現実的な関係で混乱が生じ、現実的な意味を持たない幻想的な生活につながっていく。

これが問題であることは間違いない。創造者である神を無視した解決策は適切ではない。 (創世記1章27)「神は自分の像(かたち)に人を創造した。神の像にこれを創造した。彼らを男と女に創造した。」これは健全な社会になくてはならいことである。

結婚、セクシャリティ、家族に対する教会の教えは非常に大きな圧力を受けている。裁判所は「寛容」という言葉を使って結婚、セクシャリティ、人間に対する教会の教えを排除しようとしている。例えば、同性婚の合法化、避妊命令、本人が決めるジェンダーアイデンティティに基づいたバスルームの利用などがそうである。

教会はカトリック教徒に対して、預言者として誠実かつ信心深い態度で真実を述べるよう求めている。イエスは「恐れてはいけない。語りなさい。黙ってはいけない。私がついています。」と述べている。(使徒の働き18章9)

ノボトニー・ジェローム、OMI

ノボトニー ⋆ ジェローム 神父 について

Oblate Missionaries of Mary Immaculate (0MI)は 聖母献身宣教会 (オブレート 会)に所属するカトリックの司祭ならびに兄弟のグループです。私たちは 全ての人々 --特に貧しい人々 --が人間としての尊厳に対して、完全な自覚を勝ち取るために 努力しています。私たちは、声なき者の叫びを聞き、そして多くの人に聞いてほしい とがんばっています。正義への行動は、私たちの仕事に欠くことのできない部分であ り、抑圧と貧困の原因となる全てを変えようとしているのです。このように、私たち は、まさに命の誕生からその終わりまで、人間の尊厳を認識する社会を創ることにあ ずかっています。
カテゴリー: 同性愛 パーマリンク